盛衰と変遷 浄土宗の受け入れ

創建当初の當麻寺は奈良仏教の学問寺院で、特に三論宗が盛んであったようです。これは「空(くう)」の境地の体得により、心の平穏を保つ教えでした。 平安時代はじめ、中院(現・中之坊)院主の実弁和尚がお大師さま(弘法大師・空海)に教えを授かり、當麻寺は真言宗の寺となります。「空」の境地を体得するだけでなく、それによって得た智慧を生かし、この世に調和の世界「密厳浄土」を実現しようという「マンダラ(mandala)の教え」で、當麻曼荼羅の輝きのもとで法灯が守られてきました。 これにより當麻寺は、学問寺院から、修法、祈祷、観想などの実践を重んじる密教寺院として変化します。それに伴い、密教文化が花開き、十一面観音像や妙幢菩薩像、紅頗梨色阿弥陀如来像など優れた密教美術を遺すことになりました。 しかし平安中期以降、當麻氏の勢いが衰えることによって當麻寺の寺勢も衰え、さらに平安時代末期、大きな危機が訪れます。治承4年(1180)に起こった平家による南都焼討の際、当時、興福寺の勢力下にあった當麻寺も別働隊の攻撃を受けたのです。講堂は全焼、金堂も大破するという惨事でした。 その危機を救ったのはやはり當麻曼荼羅の存在でした。鎌倉時代以降、末法思想の広がりとともに、浄土教が隆盛していきます。特に証空上人が當麻曼荼羅を再評価してから、當麻曼荼羅は数々の写本が作られ、全国に広がり、「欣求浄土」の象徴として絶大な信仰を集めました。 金堂は寿永3年(1184)には再建され、仁治2年(1242)~3年(1243)、源頼朝らの寄進によって當麻曼荼羅の厨子が修理され、須弥壇が造られています。講堂も乾元2年(1303)に再建され、正中3年(1326)には金堂の大規模な修理も行われています。
私寺ながら、多くの人々の支えによって、少しずつ守られて来た様子がうかがえます。
さらに浄土信仰が広まることにより浄土宗や浄土真宗などの教団が成立し発展していくと、「欣求浄土」の象徴としての當麻曼荼羅がそうした教団から注目されるようになります。 南北朝時代の応安3年(1370)、京都知恩院が當麻寺に目を向け、境内奥に往生院(現・奥院)を創建しました。真言宗に浄土宗が同居するようになったのはこの時からです。
やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになり、曼荼羅堂での行事に限っては伝統行事にも参加していくようになりました。また、當麻寺の護持運営にも少しずつ関与するようになって二宗共存の今の形ができていきます。
そして、現在は真言宗五ヶ院(中之坊・西南院・竹之坊・松室院・不動院)に加え、浄土宗八ヶ院のうち二ヶ院(護念院・奥院)が當麻寺の護持・運営に携わっているのです。
現在では、この真言宗・浄土宗の二宗共存について注目される方が多いようですが、法会を真言宗・浄土宗の両宗で勤めるのは曼荼羅堂においてだけで、それ以外の金堂、講堂などで行われる伝統法会は今も真言宗の塔頭だけで勤められています。むしろ興味深いのは、そうした真言宗で行われている當麻寺の伝統法会が、真言宗の作法だけで行われているわけではないというところでしょう。南都寺院伝統の悔過(けか)作法や、最勝王経、法華経の講読など、真言以前のものから中世以降に影響を受けたものまで、さまざまな儀式・所作が混在して残っており、こうした部分にこそ當麻寺らしさを感じることができるのかもしれません。 當麻寺で最も大切な行事である「蓮華会(7月23日)」では、曼荼羅堂にて勤行が早朝に勤められていますが、一時絶えていた古式の「蓮華会法則」に基づく法会が近年再興され、中之坊写佛道場にて午後にもう一座勤められています。中之坊においてはこのような伝統の復興も行われている反面、「導き観音祈願会(毎月16日)」では「音楽法要」などの新たな試みがとり入れられています。
故きを大切にしながらも固執することなく、宗派にとらわれることもなく、伝統と革新を繰り返してきた當麻寺の象徴的な姿をここに見ることができます。
03.お大師さまとマンダラmandalaの教え