創建と変遷

 推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さまが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立したのがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救世観音さまとする史料があります。  さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそうです。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。 二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、現在の當麻寺がはじまったのです。 役行者さまの法力によって百済から四天王が飛来し、葛城山から一言主明神が現れ、熊野から権現さまとして竜神が出現しました。その時に行者さまが座った石は「影向石」として金堂の前に、熊野権現の出現した「竜神社」は中之坊に、今も残されています。 こうして金堂と講堂のふたつのお堂を中心にはじまった當麻寺は、奈良時代に入ってから、東塔、西塔、千手堂(現・曼荼羅堂)、中院(現・中之坊)と、徐々に寺容を整えていきました。 その間、当初は大和と河内を結ぶ竹内街道を正面とする南面した寺として建てられていたにもかかわらず、都が飛鳥から藤原京を経て奈良に移ったことにより、地の利を優先して東を正面とする寺に柔軟に変化しています。 そうして最盛期の平安時代には白鳳・天平様式の伽藍堂塔と四十余房もの僧坊をもつ大寺院として発展し、その後幾多の盛衰を繰り返しながらも、江戸期にも三十一房の僧坊、現在も13の僧坊を残す大和の伝統寺院として今に伝わっているのです。
02.中将姫さまと當麻曼荼羅