まずは當麻寺の由緒をご紹介しましょう。
當麻寺は白鳳時代(今から1300年以上前)に創建された古刹(こさつ)です。この當麻寺が成立した開山についての話、そして當麻寺に縁の深い二人の僧「中将姫さま」「弘法大師さま」のお話などを紹介しましょう。
612年、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。その後、親王の夢に従って、681年、當麻国見(たいまのくにみ)が、役の行者(えんのぎょうじゃ)開山の地へ移したのが當麻寺(たいまでら)です。
金堂(こんどう)に本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍(がらん)が整えられました。
中之坊(なかのぼう)は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。その他、平安期には四十余房、江戸期にも三十一房の僧坊があったということです。
天平時代、藤原家の娘中将姫(ちゅうじょうひめ)は、継母に妬まれ命を狙われ続けますが、あえて恨むことなく、万民の安らぎを願い「写経」や「読経」を続けました。そして1000巻の写経を成し遂げた16才のある日、二上山に沈む夕陽に阿弥陀如来の姿を見た姫は、現世の浄土を求めて都を離れ、観音さまに手を引かれるように當麻寺を訪れます。当時の住職・實雅法印(じつがほういん)に認められ中之坊にて尼僧となり、法如(ほうにょ)という名を授かります。その後、あの日に見た阿弥陀さまのおられる極楽浄土の光景を、五色の蓮の糸によって織り表しました。これが国宝・當麻曼荼羅(たいままんだら)です。その輝きに心を救われた法如は、人々に現世浄土の教え(この世で浄土を観じる教え)を説き続け、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということです。
◇當麻寺中之坊では、中将姫さまにあやかって、「写経」や「写仏」をすることができます。特に「写仏」は當麻曼荼羅のほとけさまを描く貴重な体験です。是非、ご参加下さい。→[写仏]/[写経]
弘法大師・空海さまは平安時代、唐より「密厳浄土(みつごんじょうど)」の教え、つまり、現世に浄土を実現する教えを授かり、我が国で真言宗を開きました。弘仁14年(824)秋、お大師さまは當麻寺に参籠し、當麻曼荼羅にその密厳浄土の教えが表されていることを看破します。そして中之坊實弁法印(じつべんほういん)に教えを授けたことから、當麻寺が真言宗を奉じるようになりました。
その後に単純な浄土信仰が広められたことによって、この當麻曼荼羅は来世の浄土を描いた風景画としてしか捉えられなくなりましたが、もっと深い教えを表したものであることは既にお大師さまが指摘されています。
當麻寺は当初、奈良仏教の源流である三論宗を奉じていました。これは「空(くう)」の境地の体得により、心の平穏を保つ教えでしたが、弘仁期に弘法大師さまに教えを授かり、真言宗に改宗しました。「空」の境地を通して得た智慧を生かし、現世に浄土の実現を目指す教えで、當麻曼荼羅の輝きのもとで法灯が守られてきました。
しかし時代が下り南北朝時代になると、曼荼羅信仰の機運に乗じて、京都知恩院が當麻寺の境内に往生院(現・奥院)を創建し、200余名の僧らと共に、浄土宗の教えを持ち込みました。そして當麻曼荼羅を布教材料として専修念仏の教えを広めていきました。
やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになりました。現在でも、「二宗兼宗」として、伽藍の諸堂のうち曼荼羅堂だけは真言・浄土の二宗によって勤行が執り行われる極めて珍しい形をとっています。
曼荼羅堂以外のお堂(金堂・講堂など)での法会は真言宗のみで行われています。
![]() |
![]() HOME |
![]() お問い合わせ
|
[最新情報] [由緒を聴く] [境内拝観案内] [中之坊の詳細] [伽藍の詳細] [精進料理] [行事案内] [當麻曼荼羅] [導き観音] [写仏] [写経] [巡礼] [各種案内/お問い合わせ] [交通] [だらにすけ] [授与品]